来月、来たる2019年11月8日に、久しぶりのワンマンLIVEを開催させていただきます。
『 饗宴 – 循環について – 』
『饗宴』というタイトルをつけて演るワンマンシリーズの、今回は3回目になります。
饗宴シリーズには、そのとき自分が一番気になっているテーマをサブタイトルにつけていて
第一回「– 自己愛について –」
第二回「– 共生について –」
とやってきて、第3回目となる今回は
「– 循環について –」
というテーマを選びました。
このテーマを念頭に、ワンマン当日に向けて、日々考えを巡らせながら、
たどり着いたものをひとつの答えとしてステージの上でぶちまける。
ということを毎回やっております。
循環について。もともと興味のある話題ではありますが、特にここにフォーカスするきっかけが幾つかありました。
ひとつは、苔。
昨年・今年と、ご縁があって、大分県の阿蘇野という、人々も自然も大変豊かで美しい場所に滞在させていただく機会がありました。
もうほんとに好きで。場所も人も清くて。
帰京するときに淋しかったので、そのあたりに自生している苔たちを森から少し分けてもらって連れて帰ってきたんですよ。
で、うちに帰ってビンに入れて(苔リウム)育てていたんですが、暫くすると幾つかのビンの苔はカビに呑まれて枯れてしまって。
どうやら、良かれと思って一緒に持ってきた阿蘇野の土が、豊かすぎて、
ビンという密閉空間に閉じ込められたことで、その豊かさが暴走して、菌類が繁栄しすぎたためにバランスが崩れてしまったようなのでした。
泣きました。
もしわたしが彼らを森から切り離すことがなければ、きっと今でも青々と茂っていたろうに。
豊かさも又暴走するのだという事実が、なんだか自分の住んでいる東京という街に重なるところもあったりして考えさせられました。
そして、やはり生き物たちがバランスを保って共栄していくには、
風や、水や、光や、いろいろなものが流れていないと、
つまり循環がないとダメなのだ、と思ったのでした。
(でもそれも生命の営みだから、カビ帝国になったビンはソレはソレで面白くて引き続き育てて観察してます 笑)
そしてまたひとつは、骨。
この夏に、アー写を撮るという名目で、長野県は上伊那の森へ遊びに行きました。
この森も本当に豊かで、静かで、凛と澄んでいました。
わたしの故郷である奈良の森に少し似ていました。
そこで、なんと牡鹿の頭蓋骨を頂いたのです。
鼻先から角の先まで、ほぼ損なわれることなく形を留めている、それは見事な頭骨です。
泊めていただいた宿のオーナーさんが「きのこ採りに行くとよく落ちてるんだよねー、よかったらあげるよ!」と下さったのですが、
そんな軽いノリで初対面の人間に与えてしまっていいのか?とビビるくらい立派な骨です。
なんだか、山と森そのものが、その方の体を借りて与えてくれたような、
畏れとともに親しみを感じる、不思議な出来事でした。
かつて鹿の脳があった空洞の中には、土が入っていたり虫が棲んでいたりしました。
「ごめんねごめんね、ほんとうにごめん」と謝りながらそれらを追い出し、
担いで連れて帰ってきて、今ピアノの目の前に鎮座して作曲を手伝ったり(よく話しかけながらつくってる)してくれているわけです。
このことについても、よく思いを巡らせます。
もし、この骨が、そのまま森の中にあったなら。
おそらく朽ちて還ってゆき、またその森の動植物を育てる土になったでしょう。
動物は、体内でカルシウムを生成することができないそうです。
どうやって私達が骨を作るかというと、カルシウムを含むものを外から摂取しないといけない。
死んだ動物達は、そのまま森で土に還り、
生きているものは、その土を舐めたり、その土で育ったものを食べて骨にするのだそうです。(ネットで得た知識)
私の身体にある骨も、かつては他の誰かや何かの身体を支えていた骨で出来ている。
だから朽ちゆく彼らは、骨、というよりは、もう森の一部で、森そのもので、
そこに生きるもの達も、やっぱり森という大きな身体の一部で、
「森の途中」で、
その循環から、私の手で彼を切り離してしまったために、
彼は「骨」という事物にされてしまったんではないか….
少し難しくなっていまいましたね。
まぁこんなことをアレコレ想いながら、ワンマンに向けて日々を過ごしているわけです。
新しく曲が生まれたりもしています。今もつくってる最中。
「循環」という言葉を辞書で引くと〈一回りして元に返ることを繰り返すこと。〉(新明解国語辞典 第四版より)と書かれています。
人生においても、様々な折に何かが「一周したな」と感じるタイミングがあります。
でも、同じところをグルグルと回り続けているように思えても、その時その時で必ず自分の中の何かが変化しています。
自然や、街や、大きな世界の環の中で、私たちも生まれ、生き、変化しながら巡り回って、そしていつかまた世界に還っていく。
それはなんだかとても尊いことのように想うのです。
ちょっと長くなってしまいましたが、そんなことを思い巡らしながら、11/8に向けての毎日を大切に生きています。
循環について。
バンドメンバー含め、わたしたちなりに形造るひとつの環と巡りを、
聴きに、見に、感じに来ていただけたら幸せです。
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2019.11.08
饗庭純ワンマンLIVE 『 饗宴 – 循環について – 』
恵比寿天窓.switch
開場 18:45 | 開演 19:30
チケット:前売り¥3,400 / 当日¥3,900(ドリンク代別途 ¥600)
饗庭純
[参加ミュージシャン]
Piano 菊池亮太(アノアタリ)
Violin 向江陽子
Manipulator クロダセイイチ(Genius P.J’s)
【入場順】
①手売りチケット整理番号順 (チケットは恵比寿天窓.switch受付にて販売中)
②メール等ご予約
③当日
会場リンク
恵比寿天窓.switch
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ぜひのお越しをお待ちしております。
最後に、わたしの大好きな、鴨長明の『方丈記』より、
そのあまりにも有名な冒頭と、
あまり知られていない哀しく気高い締めの名文をご紹介したいと思います。
今回の「循環について」というテーマと深く響き合うものです。
『方丈記』
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世中にある人と栖(すみか)と、又かくのごとし。
(中略)
しづかなる暁、このことわりを思い続けて、みづから心に問ひていはく、
世をのがれて山林にまじはるは、心ををさめて道を行はむとなり。
しかるを、汝姿は聖人(ひじり)にて、心は濁りに染めり。
栖はすなはち、浄名居士(じょうみょうこじ)の跡をけがせりといへども、
たもつところは、わづかに周梨槃特(しゅりはんどく)が行ひだに及ばず。
若しこれ貧賤の報のみづから悩ますか、
はた又妄心のいたりて狂せるか。
その時、心更に答ふる事なし。
只かたはらに舌根(ぜっこん)をやとひて、
不請阿弥陀仏、両三遍申してやみぬ。
(Photograph : Kosuke Koyama)
ちなみに。大幅に中略しましたが、『方丈記』はとても面白い読み物です。
ギスギスした都生活に疲れ果てて山に篭った平安末期のスーパーエリート長明さんのルポです。
「人に会わなきゃ見た目とか気にする必要もないし、天気が良ければプラプラ散歩したり、風で松が鳴るのに合わせて楽器弾いたり、山暮らしマジ最高~」
みたいなことも書いてあって超可愛いです、ぜひ読んで。
(※個人の感想です)
では。